亀城は大正8年(1919)、東京帝国大学建築学科へ入学(注1)する。同級生であり生涯の友となる岸田日出刀(注2)はドイツの建築雑誌を愛読し、2学年上の堀口捨巳、石本喜久治らは日本初の建築運動「分離派建築会」(注3)を結成するなど、建築家を志す若者たちは海外の動向を積極的に吸収しながら、建築の新たな可能性を模索していた。
学生時代の亀城にとって最大のキーパーソンとなったのは8歳年上の遠藤新(注4)だった。遠藤がチーフアシスタントを務める帝国ホテル新館工事現場を訪れた亀城は、フランク・ロイド・ライトと出会い、その仕事に衝撃を受ける。また亀城が吉野作造・信子親子と知り合うきっかけも遠藤によるものだった(注5)。
結婚間もない土浦夫妻は大正12年(1923)に渡米し、近代建築の最前線であるライトのスタジオに勤務。ライトの空間の取り方や階段を活かした設計案、安価な資材を投入した「住宅建築の工業化」への挑戦は若き日の亀城に影響を与え、のちの建築設計に活かされていく(注6)。
また、ライトのもとに集った若手建築家たちとの交流も刺激的なものだった(注7)。最新の欧米モダニズム建築の情報をもとに、日々ディスカッションを行うなど充実した時間を過ごしたという(注8)。
タリアセンの居間でくつろぐライトと
事務所所員たち(1924年)
日本へ帰国する土浦夫妻をサンタ・バーバラに
見送りにきた
ノイトラ夫妻(1925年)
横浜のライジングサン石油社宅で語らう信子とフォイエルシュタイン
(1920年代後半頃)

ノイトラから帰国した土浦夫妻へ
宛てた手紙
大正15年(1926)の帰国後に知り合ったチェコのベドジフ・フォイエルシュタイン(注9)もまた土浦夫妻にとって大きな存在となる。亀城は彼と「地下鉄ビルヂング」(東京・神田)、「斎藤報恩記念会館」(宮城・仙台)のコンペに共同設計で参加(注10)、信子が図面作成に協力した。彼との共同設計以降、夫妻はタリアセンで出会ったリチャード・ノイトラやヴェルナー・モーザーを通して知った「四角い箱型」「装飾性を排除した白い壁面」という、ヨーロッパにおけるモダニズムの潮流を取り入れた設計を具体化するようになり、それが二つの自邸設計に投影されている。
土浦邸「第一」、「第二」はいずれも文化人の交流の場であった。
「第一」では当時モボ・モガの間で流行していたダンスパーティーを開催し、建築家仲間の前川國男や谷口吉郎らと交流した。「第二」でも変わらず建築家や美術家、美術評論家ら文化人が訪れ、国内外の建築界の最新情報や日本の建築物改善の意見交換の場となった。
海外の動向を貪欲に吸収した自邸の設計とその暮らし方には、夫妻が使命とした「日本の住環境の改善」や「仲間との刺激に満ちた豊かな時間の共有」が企図されている。
土浦邸(第一)では建築家前川國男、五井孝夫らとダンスを
楽しんだ(1930年代前半)
ノイトラ来日記念の祝賀会の様子(1930年)