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化粧文化 COSMETIC CULTURE
日本の化粧文化史

008

原始化粧から伝統化粧の時代へ 平安時代2

2020.09.28

平安時代のよそおい文化は、貴族の宮廷生活において十二単や垂髪など、日本独自のファッション・髪型を生み出しました。
そして、その後の美人像の基礎となる美人観が培われていったのも丁度この頃。大陸から伝わった白粉化粧の目的となる「美人=白い肌」という美人観が、貴族文化の審美観として定着していったのです。
それはどのように根付いていったのでしょう?中国の文学にその答えがあります。奈良から平安の時代には、貴族にとって大陸文化の習得は必要な学識。漢詩を読み、親しむことが一般教養となっていたのです。唐の漢詩には楊貴妃などの女性の美しさが讃えられ、その描写のなかで、白い肌は美人の条件とされています。こうした漢詩の表現から、貴族たちは「白い肌=美人」という概念を学び、自分たちの審美観ともしていったのです。
なぜ白い肌が美しさの価値となったか?にはいくつか説があります。代表的なのは、戸外の労働をしない日やけのない肌は、高い身分の象徴となったという説です。他には、「皮下脂肪」で透明感をもった肌は、成熟した女性を想起させ好ましく思われたなどの説もあります。いくつかの理由が重なって、白い肌は、女性的な美しさ、高貴なものへのあこがれ、美人の象徴となったのではないでしょうか。

《中古諸名家美人競 常信筆唐美人ノ図》(部分) 後編 巻一 福井月斎 縮図 明治時代
唐風のよそおいをした「白い肌」の女性。《中古諸名家美人競 常信筆唐美人ノ図》(部分) 後編 巻一 福井月斎 縮図 明治時代
唐風のよそおいをした「白い肌」の女性。

また、当時の住環境も白い肌美観を形成する上で重要なファクターとなったと考えられます。宮廷の女性が生活する大きな屋敷の中は、昼も夜も現代と比べたら、とても暗かったと想像できます。昼でも日の光が差し込まない、夜は乏しい灯りの生活空間では、真っ白に塗った白粉化粧でこそ、肌はキレイに引き立って見えたことでしょう。
平安美人という言葉が示すように、この時代から日本独自の「美人観」が形成されていったのです。
何枚もの美しい衣を重ねた十二単、長く伸ばした黒髪に顔を白く塗って強調するメーク。平安時代を代表する文学作品『源氏物語』には「白く美しげに透きたるやうに見ゆる御膚つきなど」とあり、肌がキレイで透き通っているように見えるのは世にまたとないほど可愛らしいと、白い肌を大絶賛した表現が確認できます。
「白い肌」は、中国の漢詩からの学びを経て、日本の文学表現に受け継がれました。そして、「白い肌=美人」という概念は、その後の私たち日本人の美しさのひとつとして育まれていくのです。
次回は日本独自の文化が育まれていく平安時代の化粧についてお伝えします。

《源三位頼政》(部分) 楊洲周延 明治29年(1896)
独自の髪型とファッションを纏った平安時代の女性。美人といえば「白い肌」が代名詞に。《源三位頼政》(部分) 楊洲周延 明治29年(1896)
独自の髪型とファッションを纏った平安時代の女性。美人といえば「白い肌」が代名詞に。

※このコンテンツは2014年から2019年にポーラ文化研究所Webサイトにて連載していた「新・日本のやさしい化粧文化史」を一部改訂再掲載したものです。

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