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化粧文化 COSMETIC CULTURE
もっと知りたい日本髪

021

束髪

2022.06.30

明治政府の主導により男性の断髪・洋装が急速に浸透していったのに対し、女性の洋装化はなかなか進みませんでした。しかし明治16年(1883)に鹿鳴館が建てられると、ドレスを着て舞踏会に行く必要に迫られた上流婦人の間で、日本髪を洋風にアレンジした「夜会巻き」などの髪型が見られるようになります。

《鬘附束髪図会》 楊洲周延 明治20年(1887)(国文学研究資料館撮影)《鬘附束髪図会》 楊洲周延 明治20年(1887)(国文学研究資料館撮影)

そして明治18年(1885)に医師の渡邉鼎(かなえ)と経済記者の石川瑛作が、手入れが大変な上に不便で不経済な日本髪の廃止を訴え「婦人束髪会」を設立。替わる髪型として「束髪(そくはつ)」を提唱し、束髪の種類や結い方を錦絵にして普及を促しました。

束髪は水油を主に用いるため、鬢(びん)付け油を使う日本髪よりも軽い仕上がりになるのが特徴です。「上げ巻」は、日本髪と同じく鬢(びん)や髱(たぼ)をとって結い上げますが、比較的簡単に自分で結うことができ、着物にも似合うと人気を集めました。また「マガレイト」は、日本の女性の髪型に三つ編みを取り入れた、おそらく初めての髪型。リボンや花を飾るところに目新しさもあり、若い女性の憧れとなりました。

開化的な女性が進んで取り入れ、やがて東京を始めとする都市圏から全国へと広がっていった束髪。しかし髪型が洋風になっていっても、服装は着物のままという女性が多く、昭和の始め頃までは和洋折衷スタイルが続きました。明治女性たちは、長い間親しんだ和装に洋装のアイテムを少しずつ取り入れながら、過渡期ならではの新しいおしゃれを楽しんでいました。
束髪はしだいにその種類を増やし、流行の髪型も登場するようになります。

《改良束髪之図》(部分) 歌川国梅、松井栄吉 明治18年(1885)(国文学研究資料館撮影)《改良束髪之図》(部分) 歌川国梅、松井栄吉 明治18年(1885)(国文学研究資料館撮影)

※このコンテンツは2015年から2018年にポーラ文化研究所Webサイトにて連載していた「やさしい日本髪の歴史」を一部改訂再掲載したものです。

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