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化粧文化 COSMETIC CULTURE
日本の化粧文化史

013

原始化粧から伝統化粧の時代へ
鎌倉・南北朝・室町・安土桃山時代2 武家社会へ新たな化粧文化の現れ

2021.02.22

鎌倉幕府が開かれ武家社会になると、貴族的な国風文化から武士の質実剛健な気風が反映された新たな文化が形成されていきます。女性の身だしなみや装いは武家社会に適合した様式へと次第に姿を変えていき、化粧は貴族階級から武家階級、さらに庶民にまで広がっていったのです。

まず、白粉化粧ですが、鎌倉時代以降も白い肌を作るための化粧として、女性たちに変わることなく愛用されました。鎌倉から安土桃山時代の間は、用途や効果などに大きな変化はありませんでしたが、白粉の種類が増えたことが特徴として挙げられます。
日本で古くから使われてきた白粉は、原料からみると植物性と鉱物性の二種類があります。植物性は、米粉など穀物からつくられた白粉で、平安時代に編纂された『延喜式』にも記述されていて、古代より使われてきたことが確認できます。一方、鉱物性は鉛系の「ハフニ」(鉛白)と水銀系の「ハラヤ」(軽粉)が代表的ですが、「ハフニ」 (鉛白)は、『日本書記』に、持統天皇六年(692)、僧観成(かんじょう)が唐から持ってきた資料をもとに鉛で白粉をつくったとあります。奈良・平安・鎌倉・室町と古代から中世にかけては、主にこの穀物の粉や胡粉、鉛白粉が使われていたのです。
「軽粉」の製造は、鎌倉時代にはいって、宋から伝えられたと言われており、室町時代から戦国時代にかけての時期に製造が盛んになり、「伊勢白粉」や「ハラヤ」の名で日本全国に広がっていきます。鉱物系の白粉は肌へのツキ、ノリが良かったので、鉛白(ハフニ)や軽粉(ハラヤ)の普及によって白粉化粧は、様々な地域で多くの女性に広まっていったであろうと考えられます。
眉化粧も、この時代になると、宮廷や貴族階級から、社家、巫女さらに武家の女性、遊女にまで行われるようになります。平安時代までは、眉化粧は権威の象徴、身分、階級などを誇示するものであったのが、公家を真似て武家階級も眉化粧をするようになり、それが次第に下の階級へと広がりながら、おしゃれの化粧となっていったと考えられます。

《白拍子 中古諸名家美人競》(部分)
白拍子は男装を基本としていたが、白粉を塗り、紅や眉化粧を施していた。この絵は、明治時代に描かれたものだが、当時の化粧や白拍子のよそおいの特徴を表している。《白拍子 中古諸名家美人競》(部分)
白拍子は男装を基本としていたが、白粉を塗り、紅や眉化粧を施していた。この絵は、明治時代に描かれたものだが、当時の化粧や白拍子のよそおいの特徴を表している。

こうしたメークの様子を、平安末期から鎌倉時代にかけて登場した、舞を踊る遊女「白拍子」(しらびょうし)の絵画に見ることができます。美しくよそおうことに長けて、教養も豊かだった彼女たちは、都風に「作り眉」を描き、白粉化粧に紅をさした優美なメークを施しています。源義経の愛妾静御前は白拍子の出で、多くの伝説や伝承が残されています。こうした遊女たちが当時のファッションリーダーとなって、おしゃれの伝播者として一般庶民に化粧法を伝えていたのではと想像されます。
具体的にどのように化粧をしていたのか、はっきりした記述は残っていませんが、鎌倉時代以降の様子は、男性に伍して生活する逞しい女性の姿や武家階級から一般庶民まで、絵画や絵巻物に当時の日常生活の様子が描かれています。
室町時代の働く庶民を描いた絵巻物《職人尽歌合》(しょくにんづくしうたあわせ)には、紅や白粉を売る女性の姿があって、時代を経るごとに一般庶民にも確実に化粧が広がっていたことがわかります。

では、スキンケアはどうだったのでしょうか?平安時代の上流階級は、「皀莢」(そうきょう・さいかちの実)や「澡豆」(そうず・小豆粉)などの洗浄料で顔や身体を洗っていたといわれていますが、鎌倉時代以降にそうしたスキンケアがどう行われていたのかがわかる資料が残っていません。少ない資料のなかで、鎌倉時代の仏法書『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)の「洗顔」の章には、「洗顔は西インドから東土に伝わった」、「しかし、日本国はみな口をすすいでいるが、洗顔はしていない」と記されていて、当時は信仰の作法としても洗顔は定着しておらず、そこから推測すると、まだ洗顔は一般的な習慣になってはいなかったと思われます。
洗顔が生活習慣として定着し、本格的なスキンケアが行われるようになるのは江戸時代になってからのことです。

鎌倉から南北朝、室町、安土桃山と続く時代は、武士の争いが続き「戦国時代」とも呼ばれています。この時代、新たな権力者になった武家は、新たな文化の担い手となり、一般庶民にまでその文化は広がっていきました。
女性のよそおいや化粧文化も、それまでの伝統を基としながらも、時流にそったものへと変遷し、引き継がれて江戸のよそおいと化粧文化へと結実していきます。
次回は伝統化粧文化が花開く江戸時代の化粧とよそおいについて引き続きお伝えします。

《職人尽歌合 巻上・十四》明暦3年(1657)(国立国会図書館蔵)
「白粉」を売る女性。室町時代の職人を題材とした職人尽絵。《職人尽歌合 巻上・十四》明暦3年(1657)(国立国会図書館蔵)
「白粉」を売る女性。室町時代の職人を題材とした職人尽絵。

※このコンテンツは2014年から2019年にポーラ文化研究所Webサイトにて連載していた「新・日本のやさしい化粧文化史」を一部改訂再掲載したものです。

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