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化粧文化 COSMETIC CULTURE
日本の化粧文化史

014

原始化粧から伝統化粧の時代へ
江戸時代1 伝統化粧の完成期、武家から町人主役の文化へ

2021.02.22

いよいよ江戸時代へと化粧文化史は進んでいきます。江戸時代は1603年の江戸幕府樹立から1868年の江戸城明け渡しまでの265年間もの長い期間にわたっています。そしてこの間に今日いうところの、伝統的なよそおいは完成されていったのです。

「伝統的なよそおい」とは?そうです。着物と帯の服装、髪を日本髪に結う、白粉に紅の化粧。今、私たちがテレビや映画の時代劇でよく見るファッションです。こうした様式への第一歩を踏み出したのが、今から約1400年前の飛鳥時代でしたから、完成を迎えるまでに、ずいぶん長い歳月がかかったのですね。
よそおい文化は、その時代の社会を担う主役たちの世界観や美意識、慣習、生活などを反映しながら、変化・発展しつづけました。

では、江戸時代は、どのように遷り変わっていったのでしょうか?
よそおい文化は、260年余りの時代のなかで、前期・中期・後期とそれぞれ違う様相のものへと変わっています。
まず、【1‐江戸時代前期】まだ武家の質実剛健な気風が残り、文化の担い手となっているのは武家の上級階級です。封建制度のもと身分制度が厳しく守られた時代です。身分による制約が決められていて、とくに武家女性の礼儀作法は決まりがまとめられ、装いも化粧もそれにそったものでなければなりませんでした。
慶安3年(1650)、京都で出版された『女鏡秘伝書』(おんなかがみひでんしょ)という女性用の教訓書があります。刊行以来、元禄期(1688-1704)まで何度も版を重ね、江戸中期まで続いたロングセラー本で、内容は女性としての教養や心得を説いた女性教養書というべきものです。
序文に、「をんなのかゝみ」というタイトルの所以を記しています。「されハ、この書を、をんなのかゝみ、と、つけ侍りしハ、ふうふのあひだの、ゑんを見るゆへに、かく、いへりける。あさとなく、くれとなく。かほ見たまふ、かゝみと、おなじところに、をかせたまひて、この書をも、見たまひ、ゆたんなく、おこなひたまハゞ、かならず、ふうふのあいだ、ゆゝしくも、めてたくも、あらんかし」 この本を「おんなのかがみ」と名づけたのは、夫婦の縁を語っているためである。朝夕にみる鏡と同じところに置いて、その際に読んで、このように油断なく行い努めれば、夫婦の仲は素晴らしくめでたいものとなろう。と説いています。
江戸時代前期の女性は、こうした教科書や目上の女性から教えられた儀礼や慣習にそった、身分や年齢に相応しい装いや化粧を第一としていたのです。

《風流七小町 鶴屋内・大淀》(部分) 菊川英山 文化9年(1812)(国文学研究資料館撮影)
女性たちの憧れ、豪華絢爛な遊女のよそおい。《風流七小町 鶴屋内・大淀》(部分) 菊川英山 文化9年(1812)(国文学研究資料館撮影)
女性たちの憧れ、豪華絢爛な遊女のよそおい。

【2‐江戸時代中期】になると、数々の生産業や流通、商業が発達して町民が力をつけ、そうした町民の経済力を背景に武家文化と対抗する町民の文化が生まれました。元禄期(1688-1704年)に上方・江戸の新興町人層が中心となり町民文化がつくられ、発展していきます。民衆文芸の題材にも町人気質が採り入れられ、歌舞伎や浮世絵などに著しい発展を見ることができます。遊女や役者が人気を集め、新たなファッションリーダーとしてもてはやされるようになります。
元禄五年(1692)初版の『女重宝記(おんなちょうほうき)』艸田寸木子(そうでんただきし)著には、「おしろいをぬる事女のさだまれる法にて、いろどりかざるためばかりにあらず...女とむまれてハ一日も、おしろいをぬらずかほに有べからず」とあり、女性のたしなみとして、化粧は欠かせない身だしなみであると記されています。
江戸時代中期は、封建制度にしばられた武家女性の装いや化粧に対抗して、女性に化粧は欠かせないもの、その上で自由に楽しむものとする町民のよそおい文化が育まれていったのです。

《美艶仙女香 式部刷毛》渓斎英泉 文化12年~天保13年(1815~1842)(国文学研究資料館撮影)
文化・文政頃に流行った笹色紅。紅を塗った唇が緑色になっている。《美艶仙女香 式部刷毛》渓斎英泉 文化12年~天保13年(1815~1842)(国文学研究資料館撮影)
文化・文政頃に流行った笹色紅。紅を塗った唇が緑色になっている。

【3‐江戸時代後期】文化・文政期(1804‐1829年)には、それまでの京・大坂の上方から江戸が文化の中心となり、民衆文化の黄金期を迎えます。この頃の江戸は人口100万人以上に達したといわれ、その半分以上が町人で、文化の担い手も町人となっています。流行の発信源は人気の遊女や歌舞伎役者で、その浮世絵が流行を広める媒体でした。髪型や化粧に次々と流行が生まれるようになっています。
こうした美容意識の高まりに、『都風俗化粧伝(みやこふうぞくけわいでん)』(佐山半七丸著)という総合美容書が文化十年(1813)に出版されています。この本は、トータルビューティブックとして武家から庶民まで広く長い間愛読されつづけています。
江戸時代後期。平和が続き社会にも生活にもゆとりある時代のなかで、着物に帯の服装、髪を結い上げ櫛や簪で飾る日本髪、白粉、紅、眉墨などでメークアップした化粧の美しさを多くの女性が競い、楽しみ、そして日本独自の様式美を完成しています。

江戸時代は、世界に類を見ない、よそおい文化を完成させた日本人の、繊細で洗練された感性を知ることのできる重要な時期でもあります。
次回からは、江戸の化粧文化の変遷を江戸時代前期から順々に見ていきましょう。

《風流七小町 鶴屋内・大淀》 菊川英山 文化9年(1812)(国文学研究資料館撮影)《風流七小町 鶴屋内・大淀》 菊川英山 文化9年(1812)(国文学研究資料館撮影)

※このコンテンツは2014年から2019年にポーラ文化研究所Webサイトにて連載していた「新・日本のやさしい化粧文化史」を一部改訂再掲載したものです。

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