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化粧文化 COSMETIC CULTURE
日本の化粧文化史

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近代化粧の幕開け
明治時代2 美意識の変革<化粧法:眉剃り・お歯黒の廃止>

2023.05.18

今回からは明治時代の具体的な化粧文化のお話をしていきましょう。女性たちは維新という変化の大きな時代に、どのように新しい美しさを見出していったのでしょうか。今回は「眉剃り・お歯黒の廃止」から始まった変革についてです。

江戸時代までの「伝統化粧」と明治時代以降の「近代化粧」、その相違は見た目でも明らかです。一番の違いは「そり眉」と「お歯黒」をやめたことでしょう。
現代では眉メークや白い歯は顔立ちの演出に、美の向上に、無くてはならないと考える人も少なくないはず。
しかし、江戸時代までの女性たちは眉を剃り落とし、歯を黒く染めていました。日本人が日常的に行ってきた黒の化粧、それが近代的なメークに転換していった様子とは、一体どのようなものだったのでしょうか。
キーワードは「様式美から自然美へ」です。文明開化の波は化粧習慣を一変し、その後の美意識を大きく変えていきます。

絵はがき(部分) 明治時代絵はがき(部分) 明治時代

平安時代、公家中心に国風文化が生まれ、独自の化粧文化が芽生えました。そして、国風文化のもと伝統文化が培われます。平安時代、公家の女性は自身の眉を抜いて、額に眉墨で眉を描いていました。その眉化粧は、権威の象徴、高貴な身分を表すものでした。その後、室町時代になると眉化粧は武家にも広がり「礼法の化粧」として確立していきます。江戸時代になると、般庶民にまで眉化粧は浸透し、女性が成人になる通過儀礼として眉剃りが定着。女性は結婚や子ができると眉を剃り落として、描かないまま過ごしました。この習慣は「慎ましく、そして、表情をあらわにしない」という江戸女性の心がまえの表現と考えられています。
同じように、お歯黒も中世以降、成人式あるいは婚礼といった通過儀礼と深く結びついて行われました。黒という色は他の色に染まらないという意味から"貞女二夫にまみえず"の証として、江戸時代には庶民にまで広まっています。

ところが幕末になり、欧米人の往来が増えると、眉剃り・お歯黒という様式美の伝統的慣習は、来日した外国人たちの目には奇異で野蛮な風習と映ったようです。
英国の初代駐日公使オルコックは、眉剃りとお歯黒について「歯に黒いニスのようなものを塗り直して、眉毛をすっかりむしりとってしまった時には、あらゆる女性のうちで人工的な醜さの点で、比類のない程ぬきに出ている」と評しています。
このような批判を背景に、近代化を推進していた政府は明治初年にそり眉・お歯黒の廃止を呼びかけます。しかし、身に付いた習慣はなかなか消えないもの。毎日しているメークを急にやめることで顔の印象が変わってしまうことに、抵抗感があったのでしょう。明治6年に昭憲皇后が率先してやめることで、ようやく一般にも自然な眉、本来の白い歯が受け入れられるようになったようです。
長く根付いた慣習をやめることは、日本人にとって価値観や美意識を180度変える大転換だったのです。

国の欧化政策の要請で、急遽、洋装に挑戦しドレスとヘアスタイルにマッチする西洋式メークを果敢に取り入れた女性たちは近代美の先駆者でした。西洋文化の影響を受けた自然美の意識が、はじめは一部上流階級の女性たちに、やがて一般の女性たちにも広がり化粧意識を変えていきます。

特に近代の眉メークは、当時新しい美容法として解説する本も出版され、明治36年の美容書『美顔法』(坂本重範著)には「眉毛は濃くて格好よくならんで、目の開裂にそって、弓形にそりのある具合に生えているのがよい」と書かれています。眉墨は市販品や桐などを焼いた自家製のものが使われていたようです。
明治30~40年代の絵はがきや婦人雑誌をみると、豊かな眉をした芸者や令嬢、夫人が実に多く登場しています。まさに自然・健康美を具現化した太眉美人の誕生です。近代化のはじまりに、眉は健康美を一層引き立てるシンボルとされるようになりました。自然な眉を認めることで、健康的な美しさが近代的な美しさだと認識されるように変わったのです。

左:江戸まゆずみ 右:やちよまゆずみ錠 明治時代左:江戸まゆずみ 右:やちよまゆずみ錠 明治時代

※このコンテンツは2014年から2019年にポーラ文化研究所Webサイトにて連載していた「新・日本のやさしい化粧文化史」を一部改訂再掲載したものです。

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